大隅國一之宮 鹿児島神宮由緒略記
一、鎮座地
鹿児島県霧島市隼人町
一、御祭神
天津日高彦穂穂出見尊(山幸彦) 豊玉比売命
相殿 帯中比子尊(仲哀天皇) 息長帯比売命(神功皇后)
品陀和気尊(応神天皇) 中比売命(同皇后)
一、御系統
天照大御神(伊勢神宮)-天忍穂耳尊(英彦山神宮=福岡県)- 瓊瓊杵尊(霧島神宮)-彦穂穂出見尊(当宮)-鸕鷗葺不合尊(鵜戸神宮)-神日本磐余彦尊(神武天皇=宮崎神宮)
一、由緒概要
鹿児島神宮の御祭神は海幸山幸の神話によるところの社で創祀は遠く神代にあって、又皇孫神武天皇の御代なりとも伝えられます。御祭神彦穂穂出見尊(別名山幸彦)は筑紫の国開拓の祖神に坐しましこの地に高千穂宮(皇宮)を営み給い、五百八十歳の長寿に亘らせらるる間農耕畜産漁猟の道を指導し民政安定の基礎をつくり給うた御祭神である。
俗に正八幡、国分正八幡、大隅正八幡等と称し全国正八幡の本宮でもあります。醍醐天皇の延喜の制には(九〇一年)大社に列し大隅國一之宮として朝野の崇敬特に篤く営繕の費は三州の正税を以て充てられ後鳥羽天皇建久年間(一一九八年)には社領二千五百余町歩の多きに至り江戸末期まで千石を有して居た。
明治四年国弊中社、同七年神宮号宣下官弊中社、同二十八年 官弊大社に夫々列格す。
昭和十年昭和天皇の行幸を仰ぎ勅使皇族の御参拝は二十余度に及ぶ。
現社殿は桃園天皇の宝暦六年(一七五六年)島津重年公(廿四代)の造営になるものである。
一、主な祭典並に特殊神事
・例祭 旧八月十五日 満月の十五夜の日で御神徳を仰ぐ由緒ある日である
・七種祭 一月七日 神印拝戴、翁舞、追儺式あり神印は元正天皇奉納(七二三年)の物で之を額に押戴くと年中災なく幼児は特に生育障なし といわれる。
・初午祭 旧正月十八日 御神馬を先頭に鈴懸馬多数が人馬一体となり踊りながら参拝する、全国に類例のない神事で畜産奨励のご神徳によるものである。(近時この日に近い日曜日に行う)
・藤祭 旧三月十日 御祭神が「わだつみの国」より御帰還された日と言われ、折しもこの季節は藤花の咲き匂う頃なのでこの名がある。
・御田植祭 旧五月五日 数十名の早男早乙女による古式豊かな挿秧の儀があり田ノ神舞、トド組、棒踊等の奉納がある。(この日に近い日曜日に行う)
・七夕祭 境内に七夕飾りの奉納がある。この祭典に合わせご神宝潮満珠潮干珠以外の宝物数十点が風入れの為陳列されるので拝観の好機である。
・御浜下り祭 十月第三週日曜日「放生会の大路」と古記に記述される道を通り隼人塚にて慰霊祭並に御神幸地浜御殿まで行列を組み、浜下りの神事を執り行う。
一、宝物
御祭神が海の国にて受けられた御満珠潮干珠を初め甲冑、古印、鏡、馬角、瑠璃屏風、青磁鉢、唐金花入其他がある。特に甲冑三領は文部省の重要美術品認定を受うけ鹿児島県歴史資料センター黎明館に出陳されている。
刀剣秋広(重文)は、黎明館に出陳されているが、その他は(国宝を含む)終戦時押収されて未だに不明である。
一、御陵
高屋山上陵(たかやのやまのうえのみささぎ)と称し溝辺町にあり、当宮より西北へ約二〇kmで台地の上に鰻頭型をしている。鹿児島空港に近い。当町及び加治木町よりバスの便がある。