新年、早々手にとったのはこちら。
中島義道『生きにくい…―私は哲学病。 (文芸シリーズ)』
年末に正月読む本をまとめて借りに行ったときに何となく借りてきた内の1冊。私はこの人の本が好きだ。弟子入りしたいくらい好きだ。この本も2013年の1冊目に相応しいくらいにどストライクだった。
六歳の頃から五〇歳を超えた現在まで「死ぬのが嫌だ!」と心のうちで叫びながら過ごしてきた。その理由はしごく単純明快で、死ぬと(たぶん)まったく「無」になってしまうのだろうが、それが無性に恐ろしく・虚しく・不可解だからである。
中島義道『生きにくい…―私は哲学病。 (文芸シリーズ)』p.205
私も常々「死ぬのが嫌だ」とか「明日には死んでしまうんだろうな」とか言っており、死んでしまった後のことを考えて恐ろしくなり、考え過ぎるとそこから抜け出せなくなり吐き気を催すほどである。どうせあっという間に死んでしまうのだから何やっても無駄じゃないかと本当に思う。この楽しい思い出も手に入れたモノも「無」になってしまうじゃないかと。それに対して、中島氏は「そんなこと考えてもしかたないよ」とか「だから真剣に生きるんだよ」と言うわけではない。
哲学的センスとはなんだろうか。この問いが、ここ三〇年のあいだ私の体内をかけめぐっている。厳密な論理的思考力は哲学の必須条件だが、これはあらゆる科学にも共通のものだ。自己表現欲と言ってしまえば、芸術と区別がつかなくなり、人生の意味や救いを求める営みとすれば、宗教との境界が曖昧になる。
そこで、私の考案した回答は、「解けない問いに執着するセンス」というもの。例えば、どうせ死んでしまうのだから」という、誰でも投げやりに一度は呟いたことのある台詞に、どこまでも引っかかり続けるセンスである。「どうせ死んでしまうのだから、何をしても虚しい」と私は六歳のころから思い続けており、現在に至っている。この呟きは、すべての生きる気力を削ぐほど凶暴なものであり、「そうではない」と思い直したことは、長い人生において一瞬もない。そして、この問いは「人類はどうせ滅んでしまうんだから」という呟きに連なっている。
だが、不思議なことに、こう問いかけると、ほとんどの人は「そんなこと考えてもしかたないよ」とか「だから真剣に生きるんだよ」とか腐りきった紋切り型の回答を私にぶつける。こういう「仕打ち」に耐えて、その意味を厳密に執念深くどこまでも問いつづけるとき、哲学という固有の領域が開かれるのである。人生には、割り切れないこと、理不尽なことがウンザリするほどある。が、多くの人は「割り切りたい」という欲望に負けてしまう。ひたすら、幸福になりたいからである。真理から必死に目を塞ぐことによってでも。
もうじき二一世紀。でも、私には何の意味もない。いかなる理想社会が実現しようと、理想社会に向けて奮闘しようと、その世紀の半ば以前に、私は「どうせ死んでしまうのだから」。そして人類はまた地球はどうせ滅んでしまい、宇宙には人類についての記憶は一滴も残らなくなるのだから。
だから、哲学をするのである。中島義道『生きにくい…―私は哲学病。 (文芸シリーズ)』p.281
中島氏によると「哲学病患者を前に多くの善良な市民はその真剣な問いを笑い飛ばし相手にしない(p.27)」そうで、私も大学時代に「なんでこれが夢じゃなくて現実だと分かるのか」「鏡に映ってる自分がみんなが見ている自分と同じだとなんで分かるのか」という質問をし先輩から分裂病扱いされたわけですが、そういった問いにしろ「どうせ死んでしまうのに」といったことにしろ、それを問い続けることが哲学に繋がるのだと中島氏は言うわけです。
いつも哲学カフェの進行をしながら、「自分には哲学のセンスが全くない」と思ってましたが、「死」に対する執着といった点に関しては少しはセンスがあるのかなと思った次第です。
この本は、大きく「時間について」「死について」「哲学者と文学者の違い」「現代の生きにくさ」について書かれています。自分のことを少しでも“哲学病患者では?”と疑ったことのある方、是非手に取ってみてください。
2001年7月30日 初版発行
出版社:角川書店
214ページ
ISBN-10:4048836803
ISBN-13:978-4048836807
装丁:高木善彦