トレイルランニング・登山

【姶良市加治木町】蔵王岳にのぼってきた

投稿日:2018年9月15日 更新日:

今日は始業がゆっくりだったので近場の山を走ろうと思い立ちずっと行ってみたかった蔵王岳へ。

蔵王岳とは

蔵王岳とは九州自動車道 加治木インターの隣にそびえ立つお子様ランチみたいな形した(頂上に旗立ってるし)山。

見た感じ登山道などないように見えますが、YAMAPとか見るとどうやら登れそうなので行ってみました。自宅から走って行こうかとも思いましたが、そんなに時間に余裕なかったので精矛神社まで車で。

姶良方面から見るとプリン、お子様ランチみたいな形してますが、横から見ると一部とんがってます。

登ります

登山口の方から見ると一部どころかとんがってます。

登山口へは田んぼの畦道を入っていきます。

登山口からの眺めです。

ネットで見た登山口の写真に看板が写ってて、てっきり登山口の案内かと思いきや電気柵。恐ろしや。

登山口はこんな感じ

 

登山口進むとすぐロープで急な上りです。その後高速沿いをずんずん進んで行くともう蜘蛛の巣だらけ。大量の蜘蛛の巣に引っかかり、体中蜘蛛の巣&蜘蛛まみれでテンションだだ下がり。木の枝持ってブンブン振り回しながら進みます。

 

きれいなお花。

 

木の実。

ずんずん進みまくった結果。行き止まり。右見ると既に山がないどころかむしろ凹んでる。YAMAP確認するとだいぶ進んでる。

 

 

わしはここまで何のために蜘蛛の巣を浴びまくってきたんじゃ!!!(知らんがな)

正しい登り口はここです。かなり分かりづらいので右に曲がるとこまではYAMAP小まめに見てた方が蜘蛛の巣浴びなくて済みます。

振り返ると右手に高速の看板が見えます。

目印ありましたが、確認できたのは1箇所だけ。

ずっと急です。

一瞬も走れないくらいずっと急です。

途中から落ちたら死ぬんじゃないかって心配になるくらいの崖です。

急ですが距離的には大したことなく、事前にネットで確認していた長めのいい岩場に着きます。

長めのいい岩場

海側

山側

パノラマ(拡大できます)

岩場は頂上ではなく、そこから少しだけ登ります。

岩場からまっすぐ向いたルートが急すぎて登れないので諦めて帰ろうとしたところ、右に別ルートがありました。迷ったときはキョロキョロしてください(登山の常識?)。

頂上

スタートから30分足らずで頂上に到着です。ロストしてた時間もあるので本当にあっという間。

頂上からの長めはあまり良くありません。隼人方面。

下山

頂上いてもやることないので早々に下山です(笑)

背が高い私は下りが怖いので登りの方が好き。急すぎて滑るし、岩が多いのでやっぱり走れません。

杉がきれいですが、私は杉アレルギーです

加治木の史跡

下山もあっという間。登山口から意気揚々と走ろうと思うも何かだるくて、ペース上げれず。セアカゴケグモだったんじゃないかと心配に。

のんびり史跡をめぐりながら帰りました。

日木山窯跡

日木山窯跡

現在の精矛神社の社務所の付近、南向きの斜面に窯があったと言われ、この周辺に「皿山」のち名画残っている。

幕末の万延元年(1860)5月、加治木島津家によって、苗代川焼から白欣圓ら陶工3人を指導者に招き、染付白磁を焼くためにつくられた連房式土登窯である。

日本の時期生産は、17世紀初頭、佐賀県有田町から始まる。加治木の磁器生産は、1680年頃、肥前地方以外では全国に先がけて反土棚目に山元窯が造られ、1786年にはさつまでは最大規模の窯である弥勒窯が、木田弥勒に開窯している。

この窯は、文久元年(1861)10月までの1年半の間に11回ほど使われたが、やがて収支上経営に行き詰まり、川内平佐から陶工や絵師4人を招き。請負制により経営の合理化を図ったという。このため、苗代川・平佐両窯の陶工たちの工房がそれぞれ設置されていた。

文久2年5月には新窯を築き、平佐焼きの主取落合文右衛門の指導により順調な経営を続けたが、明治4年(1871)の廃藩置県のため、加治木島津家の援助を失い廃止された。

ここの製品を加治木郷土資料(明治44年)は「・・・その製品精巧にして大いに世の称賛を博せり・・・」と評価している。

その後、小山田の犬堂英輔がこの窯で龍門司焼の焼造を試みたが、西南の役などにより短期間で廃窯した。

また、この周辺には、文禄・慶長の役の際、招来された朝鮮人陶工らによって築かれた「竜口坂窯」があると言われるが、この窯は発見されていない。

姶良市教育委員会

精矛神社

島津義弘と精矛神社

精矛神社は、薩摩藩の礎を築いた戦国大名島津義弘を祭った神社です。ここは江戸時代に加治木島津家の別邸扇和園があったところです。精矛神社は以前島津屋形内(加治木高校前の護国神社一角)にありましたが、大正7年10月に義弘公没後3百年祭の記念事業として、この日木山の地へ遷座されました。

慶長4年(1599)正月、慶長の役の武功により、薩摩大隅国内に設けられていた豊臣家の直轄地(蔵入地)などの知行地約5万石が、恩賞として島津家に返還されました。この中に加治木や国分そして出水が含まれていました。慶長12年(1607)、島津義弘は帖佐平松から加治木の屋形へ移り、新しく町割り(都市計画)を行い、通りや商人町を整え、加治木の街の基礎をつくりました。

島津義弘は、江戸時代の元和5年(1619)7月21日加治木屋形で亡くなっています。享年85歳、法号松齢自貞庵主妙円寺殿であり、亡骸は屋形を出て南へ向かい、白銀坂を超えて鹿児島城下にある島津本家の菩提寺福昌寺墓地に葬られました。また、伊集院の妙円寺には義弘の影像が納められました。

本殿右側には、義弘一行が朝鮮から帰国の際に、持ち帰った洗鉢と石臼が大切に保存されています。帰路に船足を確保するために重石として積み込まれたものと伝えられています。

精矛神社

この神社は、島津氏第17代の太守義弘公を祀ってあります。公は天文4年(1535)第15台太守貴久の二男として伊作の亀丸城で誕生、20歳で初陣以来、66歳の関が原合戦まで大小50数回の戦に参加し、添加に名を成した名将でした。

慶長12年(1607)今の加治木高校などのある一帯に居城。十数年間青少年薫育、産業を進めるなど仁政を施し、元和5年(1619)7月21日85歳で薨去されました。

明治時代、居城の跡は柁城小学校や旧加治木中学校などが建ちましたが、一部に義弘公を祀る神社を建立、社名は公の神号 精矛巌健雄命からとって精矛神社としました。

大正7年、公の3百年祭にあたり、神社をここに新しく造営、町民を崇敬者とし、加治木の開祖とも称すべき公の遺徳を崇敬することとし今日に至っています。

朝鮮から持ち帰った石臼と手洗鉢

椿窓寺の住職であった鳳山和尚が、文禄・慶長の役の陣僧として従軍した際、持ち帰ったものといわれています。征くときは兵士、武器、軍馬、兵糧を満載して船脚(ふなあし:吃水)を沈めて渡海しましたが、帰りは空船にも似て不安定で、波荒い朝鮮海峡を渡るには、沈没の危険が考えられるため、船の底荷としたものでしょう。

はじめ、島津屋形の西の丸の庭においてありましたが、明治2年(1869)今の「義弘公終焉の地」の碑(護国神社)のあたりに、そして大正7年(1918)現在地に移したものです。

姶良市教育委員会

経塚(経典読誦塔)

吉祥寺の開山である松岳和尚は、島津義弘の命により、文禄・慶長の役出陣将兵の武運長久を祈るため、8年数ヶ月もかかって法華経13,000部を読経しました。この碑はそれを記念したもので、隼人の小島から取り寄せられた自然石を使って、碑文は文之和尚がつくりました。最初は、吉祥寺(現在の錦江小学校)の庭に建てられていました。

碑文

 伏願慶生丁 未身心堅固
 家國豊饒  武運享通
 子孫昌盛  奉読誦
 法華妙典一万三千分

  檀越島津十七代 藤原義弘 敬白
  元和二年丙辰仲春時正之日
  読誦沙門東堂松岳

姶良市教育委員会

駐車場に新しいトイレも整備されていて便利です。

山データ

蔵王岳
標高:164m
走れる度:低

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